★参加アーティスト


フランソワ・ベナール Francois Benard
展示台とその上にのせられる立体作品とがどういう関係にあるかという観点からすると、 フランソワ・ベナールは、台であるコンクリートのなかに作品を打ち込んでしまうと言ってよいだろう。あるいはコンクリート自体を作品化するとも言えるだろうか。の言葉を引用してみよう。
日常生活のオブジェ+建築資材=アート作品
アート作品+コンテクスト+鑑賞者=詩 かつ/また 現実

 

Francois Benard website

ジュリアン・カドレ Julien Cadoret
表層的なペインティングから出発し、作品を鑑賞する者の感覚空間に関心を向けるジュリ アン・カドレは、日常生活のなかで使われる、平凡でありながらペインティングを想起させる材料を使用する。彼の作品は、地味な色合いのときもあれば、カラ フルなときもあるが、どちらにしろ度が過ぎるということはない。彼なりの感覚世界のなかに、彼なりの道筋をひいていく。鑑賞者は、彼が創った道を辿っても いいし、辿らなくてもいい。ブザンソンのアートNPOであるEnCasOuのキュレーターとして数々のプロジェクトの企画もおこなっている。

 

Julien Cadoret website

ジョワニ・メルール Johanny Melloul
ジョワニ・メルールは、アート・シーンとはほど遠い形象、グロテスクで大衆的な形象を描く。彼のデッサンは、自由で自発的な表現だ。笑いを誘うデッサンか ら、痛ましいデッサンまで、彼の想像力に限度はない。無制限に生み出されるデッサンが、空間配置の厳密さと結びつくことで、ジョアニ・メルールの世界はど んな場所でも成立してしまう。彼は他のアーティストたちとグループで活動することが多い。Pelvis Enrages(“怒りのエルビス・プレスリー”のもじり)というロック・グループでも活躍している。

 

Johanny Melloul website

johanny Melloul blog

イヴ・クルケル Yves Koerkel
イヴ・クルケルは同じ作業を繰り返す。大量の紙を全く同じように折っていくのだ。折ることで形象が浮かび上がる。広告のモデルの顔は、折られることで立体 作品となる。彼の作業は現実と切り離されてはいない。世界の平面を折ることで、厚みが与えられ、より幸せな世界の実現にむけて、祈りがこめられる。

 

Yves Koerkel blog

藤井光 Fujii Hikaru
ある意味、藤井光は作者ではない。オーソドックスな創作活動をしないからだ。藤井光は、出会いを企画し、それに参加し、状況(situation)を創り 出す。社会とそれに注がれる眼差しは、刻々と変化する。その現実的でありながら象徴的な変化は、ほとんど人目に触れることのない無数の行為者によって生み 出される。藤井光はその人たちを可視化することで、自身もまた、変革の行為者となる。

 

Fujii Hikaru website

Fujii Hikaru website

野本翔平 Shohei Nomoto
野本翔平にとって、アートは目的ではない。どうやってアートするのか?という問いかけのかわりに、彼はこう自問する。「何しよう?」 野本翔平は、出会いを企画する。些細 などうでもいいモノを使ってパーフォーマンスをする。選挙にでる。その他、数え切れないほどの役に立たないことをする。現実に触れる経験がしたい、ただ、 そのためだけに。 日々のなにげない行為にどんな意味を与えることができるのか、ただ、それを確かめるためだけに。

 

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八木毅 Tsuyoshi Yagi
しばしば、アートとしてのオブジェと、商品としてのオブジェとの間に境界線を引くのは難しい。レディーメイドから、ミュージアムショップでみるアートの商 品化までは、ごく僅かな差異しかない。普段、八木毅はミュージアムショップのアートグッズを制作する会社に勤めている。彼はアーティストとして、境界の曖 昧さそのものを作品を通して鑑賞者に経験させる。

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ヨシダシンゴ Shingo Yoshida
ヨシダシンゴはいつも他所にいて、自分の家にはいたことがない。かといって、旅行者というわけでもない。しじゅう動き回っているくせに、実は固定点を探し ている。自分の家を背負って歩いている、とでも言えばいいだろうか。ヨシダシンゴが探しているユートピ ア的な固定点は、他者との関係が可能な表象の場である。ごく普通の鑑賞者が自分の対話者になること、それはアーティストにとって最大の冒険だ。

 

Shingo Yoshida website
shingo Yoshida blog

 

 

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