Electric Night vol. 19

 

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Electric Night vol. 19に寄せて

 

総じてアート・イベントには、アーティストという個人と、不特定多数の鑑賞者との出会いがある。この個と多の出会いのなかで“作品”と呼ばれるものが提示される。作品には2つのものがそなわっているはずだ。まずは、その作品でしかないという唯一性・特異性である。作品にはそのうえで、整合性が求められる。なぜなら、唯一・特異な作品と不特定多数の鑑賞者とのあいだは必然的にずれが生じる。このずれを乗り越えて何らかの理解が生まれるためには、作品に整合性があることが前提となるからである。

 

では作品に整合性をもたせるにはどうしたらいいか。この点にかんして、アーティストには2つのタイプがあるように思う。ひとつは、作品と鑑賞者とのあいだの距離を縮めて齟齬を生じさせないようにするアーティストである。もうひとつは、両者のあいだの隔たりを保ちながら整合性を創りだそうとするアーティストである。

 

 

前者のタイプのアーティストは、“アートらしさのコンセンサス”に依拠することで、鑑賞者から最大限の了承を得ようとする。そのような作品は、不特定多数の理解をたやすく得られるだろう。いかにもアートらしいからアートだ、あるいは、いかにもアートらしい状況で展示されているからアートだ、という風にである。

 

たしかに“アートらしさのコンセンサス”には実効性がある。よくあるアート・イベントに、よくあるタイプの作品を展示すれば、誰からも「こんなのアートじゃない」と批判をうけることはないだろう。しかしコンセンサスにはまた副作用もある。それは、作品が画一化されてしまうことだ。いかにも明快で、複雑なところのない、規格化された製品のような作品が繰りだされることになる。

 

今日たとえばポップ・アートが、整合性づくりに利用される“アートらしさ”のひとつの型となっている。まるで、木といえば花という画一的思考のように、“アートらしさのコンセンサス”を花咲かせる作品は、誰にでも理解できる紋切り型だ。ポップ・アートといえば、もとは時代の潮流に迎合せず、そこから距離をとる特異なムーブメントであったから、創成期からしてみるとすこし嘆かわしい事態と言わざるをえない。

 

アート・ムーブメントのなかには、その時代優勢だったアートにたいするラジカルな批判に端を発しながら、後になって、美術史のなかにとりこまれオフィシャルに認知されたものもある。たとえば、ダダ、未来派、ロシア・アヴァンギャルドなどの違反的なムーブメントは、何かを破壊するために起こったのであり、流派や系譜をつくろうとしたのではなかった。それから1世紀を経た今日、もしアーティストや美術館が今だにこれらのムーブメントを標榜する展覧会をおこなおうとするならば、その本質と齟齬をきたすだろう。

 

流行のようになりつつあるストリート・アートも、もとは公共空間の秩序を乱すゲリラ的行為でしばしば違法性をともなった。セラミックタイルのスペース・インベーダーを公共空間のいたるところに貼り付ける活動で知られるフランス人アーティストInvaderは、世界中にその活動を知られながら、いまだに本名を明かさず、顔も知られていない。公表すれば世界各国で実刑を逃れられないためといわれている。ところが今やファッションのようになったストリート・アートは、行政みずから主導することもあるくらいで、アーティストたちは厄介なところをきれいにとりはらった違反性のない作品で応じている。特異性が失われ、無難で表面的なグラフィック・デザインに転じた形象は、本来の問題意識と根本的に矛盾する。それはもはやストリート・アートとはいえないだろう。

 

こうして、第1のタイプのアーティストには悲劇がおこる。整合性のある作品によって鑑賞者の了解をめざしたはずが、結果的には、アートとして価値のない紋切型におちいり、作品を唯一のものにしているはずの特異性が失われてしまうのだ。

 

他方、第2のタイプのアーティストは、作品の唯一性と鑑賞者の多様性のあいだに隔たりを保ちつつ整合性を創りだそうとする。その作品は必ずしもアートらしい形象ではないので、一瞥してたやすく理解することはできないかもしれない。しかし、ずれを保った整合性は、第1のタイプの場合とちがって副作用はない。たしかに作品理解の難易度はあがるかもしれないが、複雑であることで力と深みを増すだろう。

 

アート作品のなかには、数百年経た後になって美術史家の関心をひくものがある。なぜだろうか。それは、どんな分類でもとらえきれず単純化できない複雑さが、その作品のもつ整合性につながっているからだ。15世紀のフラ・アンジェリコを例にあげよう。2流の画家とみられていたフラ・アンジェリコが、今日の美術史家たちにあらためて見直されている。当時さかんに使われはじめた遠近法に、前時代的とみなされはじめた宗教画の表象システムをあらためて取り入れたフラ・アンジェリコは、修道士たちが慣れ親しんだ宗教画の定石からも外れていた。整合性をもって統合されつつ保たれた見事なずれは、現代において、美術館における絵画の意味をその外側から考えさせてくれる。現代の鑑賞者である私たちの心を揺さぶるのは、さまざまなずれを内包した整合性なのだ。

 

パレ・デ・パリでは、第2のタイプのアーティストを紹介している。第19弾のエレクトリック・ナイトではラファエル・モレイラ・ゴンザルヴェスとレオ・デュプレックスを紹介する。この2人に共通するものがあるとすれば、それはまさに、ずれの整合性である。

 

ラファエル・モレイラ・ゴンザルヴェスの3つの映像作品では、おおきく隔たった2つの世界が並行しつつぶつかり合っている。《Bulkyri》には、教祖であると同時に不良であるという、分類不可能だがまとまりのある活動をおこなう架空のアーティストが登場する。《Ocean Games》ではヴィデオ・ゲームのフィクションの世界と現実社会が交錯し、《Emmanuel》では技術的なシンプルさにもかかわらずパラレル・ワールドを垣間見せてくれる。いずれも複雑さのなかに不思議な整合性を保った作品だ。

 

レオ・デュプレックスは、実験音楽ライブをおこなう。ミュージシャンがある音を欲し、楽器がそれを実現し、鑑賞者が聞く。楽器はミュージシャンを鑑賞者へとつなぐ。レオ・デュプレックスは、自作の楽器でそこにずれを生み出す。シンプルな物をぶつけあうことでおこる響きと回転により、ミュージシャンの意志と鑑賞者の耳に届く音とのあいだのギャップを消し去ることなく整合性をつくりだしている。

 

アートの複雑さをいとわず整合性を求める方は是非パレ・デ・パリへ。世界で唯一のイベントにお待ちしています。

 

フレデリック・ヴェジェル、須藤佳子
(パレ・デ・パリ共同ディレクター)

 

 

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パレ・デ・パリではエレクトリック・ナイト第19弾として、ラファエル・モレイラ・ゴンザルヴェスによる映像作品の展示、そしてレオ・デュプレックスによる実験音楽ライブをおこないます。ぜひとも、ご高覧ください。 
 

催事名: Electric night vol. 19
開催日: 10月26日(木)
時 間: 午後6時~8時30分

実験音楽ライブ:午後7時~

会 場: パレ・デ・パリ
住 所: 群馬県高崎市大橋町96-2

アーティスト:
レオ・デュプレックス|Léo Dupleix
ラファエル・モレイラ・ゴンザルヴェス|Raphael Moreira Gonçalves

主 催: パレ・デ・パリ|palais des paris
協 力: 原人社
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
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Pour cette dix-neuvième soirée d' « electric night », nous avons été heureux de présenter un concert de Léo Dupleix ainsi que tros vidéos de Raphael Moreira Gonçalves (pour la vidéo “Bulkyri” en collaboration avec Alexandre Bavard).
 
Cette soirée « electric night vol.19 » est organisée par le « palais des paris » en partenariat avec Genjinsha.

 

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